ペンギン
わたしのいとこはペンギンだった。
ある日とつぜん死んでしまった。

現実という大地のうえではちいさな足でよちよち歩き、
思考という大海のなかではこのうえなく華麗に泳ぎまわる、
自由で奔放な、とっても気遣い屋の、アーティスト。

彼女と初めて出会ったのは小学生のころ。
9歳年上のさっちゃんは美術の道を志す高校生。
こっそり入った彼女の部屋は、オブジェや絵画に溢れていて、
オレンジやレモンをモチーフにした描きかけの不思議な絵が、
部屋の真ん中に置かれていたのをいまでも鮮明に覚えている。

「憧れ」という言葉の意味も知らなかったあのころ、
わたしが初めて憧れたのは、間違いなく、さっちゃんだった。

やがて思春期になり、親戚づきあいを厭うていても、
さっちゃんが帰省していると聞けば、嬉々として行った。
お年玉よりも、ご馳走よりも、さっちゃんと会いたかった。

彼女が話す言葉はむずかしく奇想天外で、よくわからなかったけど、
彼女の瞳はいつも輝いていて、くるくると動き、それは素敵だった。
彼女と血が繋がっていることが、わたしのささやかな誇りであったし、
彼女みたいにいつかどこかへ羽ばたいていきたいとずっと思っていた。

進路に迷った高校3年生。
わたしは彼女が「真美に合うのはここ」と決めた学校へ行った。
彼女の直感はいつもおおむね正しく、わたしにとってベストの選択だった。
多忙な彼女にはたまにしか会えなかったけれど、会えば何時間でも話した。
こんなにも大好きなひとが、いとこであることが、いつも嬉しかった。

就職に戸惑った大学卒業まぎわ。
「うちにおいで」と呼んでくれたのが、東京の演劇制作事務所。
残念ながら、ちから及ばず、途中で名古屋へ戻ることになったけれど、
わたしの生涯にわたって財産となる多くのことをこの会社で学んだ。

名古屋での生活にも慣れたころ。
さっちゃんが東京から帰ってきた。事情はいろいろあったのだと思う。
でもわたしは正直に嬉しかった。再びそばにいられることが嬉しかった。
「名古屋でなにか一緒にやろう」。そう言いながら、何年も経ってしまった。

わたしが躁うつ病になったのが4年前。
極限の引きこもり寝たきり生活から這い上がりかけたころ、
さっちゃんのお母さんに癌が見つかった。さっちゃんはうつ病になっていた。
なにか歯車のようなものが軋みだしていたのかもしれない。

2月。まだ寒さの残る冬の終わり。
彼女が苦しみのなかで出会い、生きる希望としていた、
シンガーソングライターの堀川ひとみさんのライブに連れて行ってくれた。
この縁が、わたしのいまを大きく変えるとも知らず。

ひとみさんの歌は、繊細なやいばのように鋭くこころの琴線に触れ、
切れるか切れないか擦れ擦れのところで、弦をふるわせる楽器のようだった。
わたしの憧れのさっちゃんが、惚れ込むことに合点がいった。
「名古屋でなにか」が、「ひとみさんのライブをやろう」に変わった。

大好きなさっちゃんと、さっちゃんの大好きなひとみさんのライブを。
はじめて自分の夢を発表したときに誉められたこどもみたいに、
わくわくした気持ちは、わたしを強く強く明日へと導いた。

4月13日深夜。
前日に調子が悪いからといって会えなかったさっちゃんに電話をした。
泣いていた。あんなに泣いている彼女を知ったのは初めてで動揺した。
なにを話したのかは、あまり覚えていない。彼女はずいぶん酔っていた。
でも最後に「一緒に生きていこうね」と言ってくれたことは一生忘れない。

4月14日の夜。
伯父から母への一報。とてもとても嫌な予感がした。背筋が凍る。
冷静を保つ母に必ず様子を知らせて欲しいと頼んで、母を送り出す。
・・・何時間も連絡がない。激しいパニック発作と過呼吸が襲う。
「お母さんに電話して」と泣き叫んで頼むわたしに急かされ、妹がする。
戻ってきた妹の目は真っ赤で、うっうっうっ、と唸っていて。
気が狂うというのは、まさにあの夜のわたしだ。
どうすれば、あんなに大声が出るのだろう。高くも低くも自在にだ。
泣きじゃくり、暴れまわり、叫んでも叫んでもおさまらず、
強い薬を何錠飲んでも、どうにもならずに、
それでもやがて、疲れ果てて、寝た。


わたしを置いて、ペンギンの国へいってしまった、さっちゃん。

「お父さんやお母さんが死んだら、真美と暮らすからいいよ」
なんて、憎まれ口のように言っていた、さっちゃん。

サラサラの髪の毛で、ザラザラの皮膚のさっちゃん。

話しにくくなった声を振り絞って、お気に入りの話を何度もしてた。

もっと、もっと、ちゃんと聞いていれば良かった。
ほんとうは、ほんとうに、言いたかったことがあったんじゃないの?

「真美にしか話せない」と言いながら、ろれつの回らない声にならない声を
聞き流すようにしか聞けなかった自分のことをわたしはいまでも責めている。

だって、ほんとうは、言いたかったことが、あったんだよね。
聞き出してあげられなくて、最後の電話もなんとなく切ってしまって、
「あのね」「あのね」って何度も言うのに、話が進まないことが、
少し煩わしく思った自分のことをわたしはいまでも責めている。

そんなことを少しもさっちゃんは望んでいないとわかっているけれど。

わたしずっとずっと、貴女のことが、大好きだよ。
わたしの人生の幹となったのは、間違いなく貴女への憧れだったよ。

わたしはいま、空っぽだ。
貴女のいないここは、とても淋しいよ。

わたしこそ、お父さんやお母さんが死んでしまったら、
さっちゃんと生きていきたいと思っていたよ。

ずっと一緒に生きていこうと思ってたよ。

さっちゃんがいるから、ひとりじゃなかった。

なのに、なんでいっちゃったの・・・。


理性では、ほとんどのことが解決可能に思えるのに、
感情には、ほとんどのことが対応不能だ。

彼女のいのちは間違いなくわたしのなかに宿っているし、
彼女の生きた証を引き継いで生きていく覚悟も整っている。

なのに、まだまだ、涙が出る。

大切な友だちが「泣くのは生きようともがく事のあらわれ」だと言っていた。

わたしは、さっちゃんを失った日から、わたしの幹を枯らさないように、
必死に生きてきたように思う。もがきあがいてきたように思う。

自分を責めて、悔やんで、生きてきたように思う。

さっちゃんのぶんまで幸せにならなければならないというプレッシャーと
さっちゃんの幸せを奪ってしまったのではないかというプレッシャーと
二重の足かせをして、引きずりながら歩いてきた。


今日、7月21日。
さっちゃんがこの世に生まれてきてくれた日。
わたしはさっちゃんに、さっちゃんへの想いを返そうと思う。

もちろん、いつまでも忘れないし、大好きだ。
でも、それ以上のごたごたした想いを全て天に放とう。
これも全て彼女への愛ゆえの感情だから。

そこからしか、始められないことが、あるから。


さっちゃん、生まれてきてくれて、ほんとうにありがとう。
わたしをずっと可愛がってくれて、大切にしてくれて、
ほんとうに、ほんとうに、ありがとう。

さっちゃん、お誕生日おめでとう。

わたしはこの日をずっとお祝いし続けるよ。



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この言葉たちが届きますように・・・。


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